台所に立つことの動機は、やはり「お腹がすいた」、「おいしいものが食べたい」、それで十分なのだ。シャンソン歌手「藤原素子」が綴る、日々の、普通の食卓のレシピ

貧すれど鈍せず

米事情

米に関して書こうと思う。
めずらしく豪勢な話になると思うので覚悟していただきたい。


フランスには、「カリテ・プリ」という言葉がある。カリテは品質(QUALITE)、プリは値段(PRIX)の意味であるが、カリテ・プリとはこのバランスがとれていることを指す。
フランスでは、カリテ=プリということに大変な情熱があるらしい。

つまり、値段と内容が一致していることが大切であって、100円のものはそれなりで仕方がないが、100万円のものはそれ相当のそれなりでなければ承知しないという、一見当たり前なことをいうのだが、さて実際はとなると、日本ではカリテ=プリの概念はきわめて希薄だと言わざるを得ないだろう。


東南アジアを旅していても、カリテ=プリの概念を感じることがある。
マーケットの商品には、値段が明記されていない。こちらが「いくら?」と聞くと、「いくらで買う?」と返される。

そこで買い手は、商品に対して自分なりの価値観を考えるわけだ。今必要で、どうしても欲しいのか、それならばどの程度の金額なら買ってもいいと思うのか・・・。この段階で、自分のつけた金額と、自分以外の人がつけた金額とは一致しない。
その値段を提示して、売り手とうまく合えば購入する。合わなければ値切るかあきらめる。
定価の国に生きている日本人には、この考えが皆無に近いので大変だ。


さて、本題の米だ。

最近は玄米や五穀米といったものが流行りで何かと混ぜたがるらしいが、私は断然白飯派だ。

美味い白飯。これは何にも増してご馳走である。
どんなレストランや料理屋でも、最終的に米がまずければ失格だ。仕出しで有名な老舗の銀座の店で、炊き込みご飯が出てきたのには驚いた。
炊き込みなら、炊いてから時間がたってもわからない。管理が簡単なのだ。
いつでも美味しい白飯を出すことは、よほど情熱を注がないと無理である。

米はピンキリである。
その値段は、まさに「カリテ・プリ」だと思う。
昔は安米を買って、サラダオイルをひとたらししてから炊いたこともある。どうやってもまずい米が、いくらかマシになった。

現在、私がしている唯一の贅沢といえば米だ。
なんとあの魚沼産こしひかり。ああっ書くだけでも手が震えてくる。

とは言っても、ひとり暮らしの米の消費量はごく少ない。2kg買ってもひと月は持つ。
ささやかなシアワセを米とともにかみしめるとき、ひとり暮らしも悪くないと思う。


ちなみに炊くときは2合ずつ炊き、炊けたらすぐに4〜5等分してラップで包んで冷凍する。
熱いうちでも保冷材でサンドイッチすれば、他の冷凍品に影響しない。
早く凍るように、ステンレス製の容器などに入れればより完璧だろう。


2006.9.7



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