不定期更新!?藤原素子の日記帳です。

日々の出来事 〜Diary〜

#829 ありがとうございました
2024年04月06日(土)23時56分
歌の先生が91歳で亡くなった。
連絡をくれたのは姪っ子さんで、大変お世話になりましたと、丁寧な電話をいただいた。
先生のレッスンを受け始めたのは、私がまだ歌手になるとは思っていなかった頃だった。ルーブルで歌い始めたものの、自分の下手さかげんに嫌気がさし、紹介してもらったのが先生だった。
月2回、渋谷のスタジオでの個人レッスンだったが、まず困った劣等生だったに違いない。デタラメなカラオケくらいしか歌ったことのない生徒には、音楽の構成も、アドリブのセンスも、ちんぷんかんぷんだった。それが、徐々にシャンソンの世界に引き込まれていったのは、先生の人柄もあったのだと思う。
1時間のレッスンはあっという間に過ぎてしまう。先生が、自宅でのレッスンを提案してくれてからは、スタジオレッスンの他に、山梨のご自宅に通うようになった。ここで、歌手としての心得、日常が大事ということ、見た目も重要、などと、様々なおしゃべりと共に、本格的なレッスンを受けた。
時には1小節に1時間をかけたこともある。ピアニシモとブレスの位置など、それこそ事細かく、レッスンは数時間に及んだ。そして夕方になると、先生がサンドイッチを作ってくれて、私のために用意してくれたビールを飲みながら、バスの時間までまたおしゃべりするのだった。
そんなことが続くうちに、渋谷のスタジオが再開発でビルごと無くなってしまうことになった。先生はこれを機に、レッスンは止めるというのを、その後も自宅でのレッスンを続けたのは、きっと私だけだったのではないかと思う。思えばすいぶん図々しい話だが、それを受け入れてくれて、私は先生の最後の弟子となったのだった。
レッスンはコロナの前の年まで毎月続いていた。一度、思い切って突然訪ねたことがあった。少し痩せて、髭も伸びていて、部屋も片付いていなかったのを、私は見てはいけないものを見たと思ったのだった。それまでの先生はいつもキチンとしていて、ダンディでフェミニストだったから。
その後は一度ほど電話してみたこともあったが、出ることはなかった。それでも訃報を受け取るまで、いつか訪ねてみようとずっと心の中にあったものだ。
厳しいことも、楽しいことも、夏の日も冬の日も、すべて先生と共に過ごした。私という歌手を作ったのは先生だった。今でも、日々の練習には先生とのレッスンの録音を使っている。レッスンを受けた30年という月日が、今の私を支えている。


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